こういうことを書く必要があるのかと言われればたぶん無いのかもしれないけど、いみじくも自分自身を一部、時には全部売り物として活動している以上、なんとなく言わないのも変だなと思って書いておくけど、先週父が死んだ。
今めちゃくちゃバタバタしている。そしてバタバタの終わりは見えない。
はやかった。六十六歳という年齢もそうだけど、単純に、不調から最後までが。
なにせ十一月の頭に調子が悪くて検査をしてから、月半ばに入院、それから一週間後にはもういなくなっていた。
ちょうど二ヶ月前には来年の春ぐらいのことまで話し合っていたのに。
あまりにもはやすぎて色々と片付いていないことばかりで、こうしている今も役所や銀行に出向いて片付けなければいけないタスクが思い付くだけでも五つ以上ある。おかげで悲しさは確かにあるけども忙しさの方が勝っている。だから必要以上に暗くならずにすんでいるのかもしれない。
もう少しきちんと色々なことを考えようとは思うんだけど、ひとまず今この時のとりとめのなさというのをなんとはなしに考えて羅列してみる。タスクが増え続けているのもあり、こういう形で頭の中身を並べてみないと、ちょっとうまく頭が回らなくなってきているのだ。大したことは書かないけど、お目汚しご容赦ください。
まず、本当に、人生に意味なんてないんだな、ということをしみじみ感じている。
べつに父の人生が無価値だとか、そういう話をしたいわけではなく、父も僕も、おそらくは他の誰でも、生まれてきたから生きているだけで、死ぬまでそれを続けているだけなんだなと思う。
人生、という単位ですら今僕は疑わしく思っていて。
人が生きた時間や行動や影響というものを意味とか価値とかそういう物差しではかるということはできないし、そんなことをする必要もないんだな、ということをなんとなく考えている。
ただみんな生きているだけで、そのことに意味を持たせたり解釈をしようとするのは、自分の好き嫌いとか納得のためでしかないよなと思っている。
ただ生きてきた時間がある。その人の過ごしてきた空間や人間関係や色んな数字や文字の羅列があって、そういうものの一つ一つをその人の存在から切り離して価値があるとかないとかは決めつけられない。ただそこにそういう時間や言葉がある、あった、と認識して、そうかあ、と唸るしかない。そんな気がしている。
そう、意味を持たせる、というのも思ったことだ。
今回の父のあれこれについて、我ながらとにかく本当にびっくりするぐらい、色んなことに意味を持たせようとしてしまう。
あの時の言葉はとか、あのタイミングであれは、とか。
そういう発想になるのは納得したいという心の反応なんだろうけど、でも本当に色んな偶然なんか、おお、と思うところがたくさんあって、気がつくとあれもこれもと運命論じみた組み立てをしようとしてしまう。
それが良いとも悪いとも思わないけど、この調子でさまざまな伝説や逸話が作られていくのかなとか思ってしまう。
十年後には感動の物語に育ってしまったりしたら我ながら嫌だな、とか考えている。
あとは本当に、人が一人、死んでしまうということは、面倒くさい。
手続きも儀式も連絡も確認も。お役所仕事的な「とほほ」も相まってそこんところは本当に骨身に染みて現在堪えている部分だ。
ちょうど二ヶ月ほど前に大塚英志の『キャラクター小説の書き方』を読んでいて「作中で死を描くということについて創作者はある程度自覚的にならなくてはいけない」という論を読んだところだったけど、本当に、人間が死ぬということは少なくとも現代の日本の社会の中では結構面倒くさい一大事で、これからあんまりにすんなりそれが描かれているところを目の当たりにすると苦笑してしまうようにはなるだろうな、と実感している。
あとこの面倒くささはその人がどれぐらい社会と繋がって生きていたかにもよると思うから、その辺、自分が死んだときはどうだろうとかも考えた。結構面倒くさい気がする。身内には苦労を掛けると思う。
そして最後に、これはもう、マジで、今さらだし、言われなくてもではあると思うんだけど。
あっさりと、急に、人はいなくなってしまう。
考えていることとか精算したいこととかなるべくできるときに片付けなきゃいけないなとは思う。なんらかの形に残せなかったり伝えられなかったりしたら、それらは無かったものになってしまうわけで、どうしようもないからだ。
なにより身近な人、大事な人が不調を訴えていたら病院にいったり休むことを強めにすすめてあげた方がいいと思う。自己満足でもいいから。
僕の父のこの話をタネにしてもいい。というかしてください。
まだまだ色々考えてはいるけれど、ひとまず言葉にできたのはここまで。
明日も役所にいかなきゃ。