アナタサヨナラテポンポン

古屋敷悠と森宇悠の暫定的ブログです。

僕の未来に光などなくても 君の明日が醜く歪んでも/Mrs.fictions『月がとっても睨むから』

 私たちの社会は「健全」を前提として作られている。

 

 だから、ある種の歪さなんて持ち合わせず、もしくは持っていても無自覚なままで後ろ暗い気持ちになることなく生きていける「健全な人」がこの社会にはたくさんい(ることになってい)て、むしろ多いか少ないかで言えば多い方かも知れず、それで世の中は問題なく(問題なく?)回っている。ことになっている。

 

 それは、実状がどうであれその建前は、正しいし合理的だしそうあるべきだと思いもするし、社会がその建前をよすがに成り立っているのだとちゃんと僕は納得している。

 納得しているし、だからといって自分の歪さについて自覚的であることで被害者ぶりはしないし、自分を弱者だと思うこともない。

 おそらくはそんな歪さなんて大なり小なり誰もが抱えていることで、そんなことをいちいち気にしているなんて面倒くさい人間のすることだから。「健全」は正しいことだし良いことだし、その正しさにこちらが勝手に尻込みしているだけなのだ。

 

 けれどどこかにずっと、誰かにわかってもらうには少しややこしい生きづらさのようなものは確かに抱えていて、それは「健全」とはかけ離れたもので、時々、本当に時々、ふとした拍子にちょっとしんどくなる。誰かに話したいわけでも理解してほしいわけでもなく、ただ、ふっ、と自分のどうしようもなさに暗い気持ちになる。

 それはそれ、仕方のないことで、どうにもできないことで、またその気持ちを抱え、次第に忘れ、日々を生きていくしかないのだけど。

 

 つい一昨日、錦糸町の劇場、すみだパークスタジオ倉(ややこしい名前ですね、劇場なのです)で、Mrs.fictions(劇団名ですね)『月がとっても睨むから』(公演タイトルですね)を観劇しながら、そのふとした暗い気持ちをずっとなんでもないことのように片付けていた自分の欺瞞は破け、思わず泣いてしまっていた。

 

 目の前で繰り広げられる2時間強の演劇作品の中には、自分とは形が違うけれどやはり歪さを抱えたまま生きている人たちがいて、歪さと向き合い、人生や社会に何かを諦めながらも、それでも生きていくしかないのだと、面白おかしく生きようとしていた。

 その強さと弱さとどうしようもなさが、ただただ哀しかった。

 哀しい人間たちが、しかしそれでも足掻いて生きようとする様を愛さずにはいられなかった。

 

 

※※※

 これより本編の台詞や設定について言及をする部分が出てきます。

 読んだとしても、あくまで物語の核となる面白さは失われないでしょうし、物語の展開についてネタバレしてしまうこともありません。

 ですが、それでも気になるという方は読まないことをオススメします。

 

 ちなみに、Mrs.fictions『月がとっても睨むから』は8月12日(月・祝)まで錦糸町にて公演中です。

 詳しくはhttp://www.mrsfictions.com/next_2019_moon_r.html

 をご参照ください。

※※※

 

『月がとっても睨むから』、物語の骨子は単純だ。

 過去のある事件からヒーローとしての人生を自分に義務づけた人間と、同じ事件の加害者として人並みの人生を拒み続けた人間、二人は事件以来会うことはなかったのに、20年の時を経て立場も性格も変わって再び会ってしまう……そういう話だ。

 

 二人を中心に、ずっと「加害者」と「被害者」について物語が繰り広げられていく。

 どちらか一方の在り方、という語り口ではなく、登場人物たちは常に「加害者」であり「被害者」、誰もが誰かに傷を負わせている中で、加害者はいつまで加害者で被害者はいつまで被害者なのだろう、ということが描かれ、許すこと許されること、忘れること、慣れること、心に傷を負い生きるということ、表裏一体であるアイデンティティとトラウマ、それらの間を不器用に二人は立ち回る。

 

 ……と、ここまで書いて、自分の語り口の仰々しさと真面目さにちょっと手を止めて首を傾げた。

 

 『月がとっても睨むから』はこんな話ではなかったからだ。

 ここまで来てなんだよその説明は、と思われるだろうけど、でも確かにそうなのだ。

 

 もちろん、先に書いたことは間違いではなくて、そういう話ではある。あります。物語の中に確かにそういった要素はあって、それらはしっかり丁寧に描かれている。

 でも、そんな、全然。角張った、シャチホコ張った、そんな語りはこの作品に似合わない。

 この作品は、もっと優しく滑稽な言葉たち、愛すべき俳優たち、繊細で隅隅まで行き渡った演出で、観客を楽しませてくれていたからだ。

 

 実際に上演劇場がある錦糸町を舞台に、主人公は漫画のようなスケールで弱者とマイノリティのユートピア特区を作ろうとする正義の味方であり、月を手に入れるほどの暴力的なまでの金持ちが出てきたり、ワーカホリックでバイト漬けの超有能なギャルや芝居がかった様子で意味ありげに振る舞うがその実何もしていない刑事などなど……非常識極まりないキャラクターばかりが登場し、物語の運びはシリアスとは真反対に、しかしコメディにも振りきれず、ファニーな人々が戯画化された世界で時折見せる哀しさはやけにリアルで、あくまで自然にこちら側に届いてくる。

 そのバランスの取り方は絶妙で、俳優たちの演技と演出が噛み合い、観客は物語から離れることなく笑い楽しみ、そしていつの間にかキャラクター達の心に置かれた哀しみに気がつくことになる。

 呑気に見える人々も心の底を叩けば哀しい音がする、と夏目漱石と猫が語っていたように、彼らが愉快であればあるほど、その哀しさは際立って辛い。

 

 傷つかないで生きることも傷つけないで生きることもできない哀しい生き物である人間が、自分の在り方を「加害者」「被害者」として決めつけることの不毛さ。

 しかしそうすることでしか感情の置き場を見つけられないというどうしようもなさ。

 おそらくは犯した罪に本当の意味での許しが訪れることもなく、誰かを本当に許すということも容易にはできそうもなく、お互いにゆるやかな忘却と慣れが染み渡っていくのをじっと耐え続けるしかない。

 そうしてすら、本当にいつか「加害者」「被害者」から抜け出られるのかわからない。

 暗澹たる気持ちになりそうなその道のりを登場人物たちは足掻きながら歩いていて、しかしその足掻きを哀しいと思いながら同時に愛しいと思って微笑んでしまうのは、台詞の端々に滲む中嶋脚本のユーモアと、俳優たちの演技の賜物だろう。

 

 しかしもちろん『月がとっても睨むから』は楽しいだけ哀しいだけの物語ではない。

 苛烈な、ある意味で眉をひそめたくなるような厳しい悲痛な叫びが随所に隠れ、そして所々で析出して観客を刺す。

 

 自分達を「加害者」側として認識している人々の中の何人かは、自らの歪さに苦しんでいる。

 彼らは、実際に罪を犯したかどうかは別としてそれぞれが、その発端となる歪な心ーー本作ではそれは性嗜好として描かれているがーー歪さを自覚し抱えながら、しかし捨てることもできずに苦しみ生きている。

 その歪さが誰かを傷つけることを恐れ、また傷つけてしまったことを後悔し、それでも歪さを抱え続ける。

 おそらくは大多数の共感など得られない「不健全な」歪さは、他ならぬ自分自身の一部だから。

 

 正しさや清さや美しさが求められる現代において、歪で特異でどうしようもない人間はどう生きればいいのだろう。

 何人かの台詞にあったその「自分の歪さとの向き合い方」は悲痛な叫びのようであり、思い出しても辛くて、僕は泣きそうになる。

 

「自分を誤魔化しながら生きていって、それでも死ぬまで誤魔化せたらそれもアリじゃない」

 

 と、ある者は笑い、


「すべてを間違って生まれてきてしまった自分にも社会との折り合い方があるはずだと信じたかった」

 

 と、ある者は泣く。

 

 それは「加害者」としての言葉だけど、自分のものとしてその言葉を受け止めてしまう哀しさが観客席で歯を喰い縛りながら観ていた僕の中にも確かにある。あるのだ。僕もまた、どうしようもないのだ。

 

 そのことを割り切っていても、「健全」を是とする社会に問題なく(問題なく?)生きていても、それでもやはり自分のそんなどうしようもなさを哀しいと思うし、その哀しさと共鳴するような歪さを抱えた作中の人々を観たとき、安堵と共感から泣くしかなかった。彼らの足掻き耐え続ける姿を愛さずにはいられなかった。

 

 弱者であることや被害者であることすらも武器に変えて人を殴り付けてしまえる人だっているこの世の中で、彼らは彼女らはただひたすら爆弾のような凶器のような自分の歪さが誰かを傷つけるのを恐れ、それと向き合いながら社会の中で耐え続ける。

 それは愚かで、哀しく、果てしのない、そして往くあてのない贖罪だ。

 

 

 こんな風な自分でなければ。

 自分の歪さが誰も傷つけずに済んでいたなら。

 違う生き方ができたなら。

 こんな人生を終わらせられるなら。

 

 

 物語の終盤、罪と歪さを抱えたままで、そんな後悔とも願いともつかない哀しい反芻を繰り返す作中の人物に投げ掛けられるのは、

 

「物語に毒されてるから、もっと違う人生があったんじゃないのかなんて考えちゃうけど、この人生しかないんだよ。自分の人生を生きていくしかないんだよ」

 

 という、ともすると厳しく響いてもおかしくない台詞だった。

 

 それでもその言葉がこの作品の救いの言葉として映るのは、そこに自分の人生を諦めないという登場人物の意思があり、そう演じられていたからだろう。

 そして歪さを抱えたままの人生という道行きに誰かがその手を差しのべてくれていたからだろう。その歪さを理解はできなかったとしても、手を伸ばしてくれる人がいるというのは、大きな救いだ。

 

 自分の人生を生きて行くしかない。

 

 その通りなのだ。

 みんな自分の人生を、一度きりの、やり直しも交換もできない人生を、自分の足で歩いていくしかない。

 歪だろうとなんだろうと、誰が隣にいてくれようと、歩いていくことしかできない。

 歪な心を抱えた未来に光を感じられず、その先に不幸しかないとしても。

 それでも進んでいくしかないのだ。

 その果てが、暗澹たる絶望の連続だとしても。醜く歪んでいても。

 

 

 

 

 

 

「生きてるの楽しいー? 私は楽しい。何が楽しいって、まだ楽しいことがありそうってとこが楽しいよねー」

 

 呑気なこの台詞は、物語の中盤で何気なく語られるものだ。

 でもこの言葉こそが本当の、本作全体への、救いをもった言葉なのかもしれないとも思える。

 

 歪さを抱え生きていくのは哀しい。

 その未来に光はないかもしれない。

 それでも、いつまでも哀しいばかりでも辛いばかりでもいられない。

 

 僕たちは、人間は、どうしようもなくて、どうしようもないからこそ、自分の在り方とは裏腹にちょっとしたことで嬉しくなったり、喜びを感じたりするのだろう。

 

 そうしてふとした時に楽しくなってしまうどうしようもなさこそが、人生の救いなのかもしれない。

 

 それはこじつけなのかもしれないし、逃避なのかもしれない。

 やはり歪な心の先行きに希望はないのかもしれない。

 

 それでも、そう信じて歩いていくしかない。楽しいことがありそうだと、世界を諦めずに生きていくしかない。

 この世界にはヒーローは多分いなくて、助けを呼んでも現れないから。

 張りぼての、歪なヒーローだとしても、まずは自分が自分へ、手を差しのべるしかない。

 

 そしてもし誰かから手を差しのべられたら、それを受けとる勇気を持つことが、ささやかな、この「健全な」世界に対する戦い方なのだと思う。

 

 僕たちは生きていくしかない。

 

 歪なままで。

 

 辛辣なその決意に少し希望を感じてしまうのは、世界のどこかにその哀しさをもって共鳴する人が確かにいるのだとこの作品が教えてくれているからだろう。

 

 少なくとも、ヒーローのいないこの世界で、この作品は確実に僕の心を、心の中の自分でも遠ざけていた一部を救ってくれた、言わば局所的なヒーローだった。