映画が観たいのである。
じゃあ観ろよってなもんだけど、なかなか観るには時間も気力も必要で観られない。
観始めれば最後まで観るのだけど、なかなかこれを観ようと決められない。
もったいない、とどうやら思っているらしい。
時間や労力や、おそらくは「死ぬまでにあと何本の映画を観られるだろう」などと計算し、残りの◯本をこれで埋めてはもったいない、と選り好みしている。
そのくせ大して観たくもないような作品を「これは続編が気になるから」「これは名作と名高いから」「これを観ていなきゃ一人前と呼べないから」などとくどくど理由をつけて、ひいひい言いながら観ている。
損をしたくない、と年を取るにつれて思うようになってきた。
ちょっと前までは、なんだって栄養にしてやる、と悪食に浪費空費寄り道道草と明け暮れていた気もするけれど、この時間の先に待ち受けているものが成長や上昇ではなく、多くは衰え下降していくのだと気が付いたからか、最近では損をしないようにおそるおそる生きている気もする。
本だ映画だ音楽だ漫画だドラマだと、なんでもかんでも損のないように、細心の注意を払って選んでいる。
その行為に意味があるのかはわからない。たぶん意味はない。そんな意図は役に立たない気もする。
意味はないとわかっていてもけど、意味のあるものを選ばないと、と注意している。
人生は、無駄よ、無意味よ、それこそが本質よ、とからから笑っていながら、内実、無駄も無意味も怖くて仕方がない。意味がほしい。意味がほしい。
しかしそれすらも通り越して、今や意味に食傷し、意味に頭を疲れさせてしまっている。
かと言って、意味のないことをしなければ、意味の無いものを味わってみなければ、と細心の注意を払うというのもそれはそれで違う気がする。
損はしたくない。
無駄こそが人生よ。
意味がほしい。
意味のないものが必要だ。
まったく別人の四人の言葉のようにも思えるけれど、私一人の言葉で、四方から引っ張る力のおかげで私は今日も映画を観られない。
ああ、映画が観たい。