アナタサヨナラテポンポン

古屋敷悠と森宇悠の暫定的ブログです。

灯台守の不在

「好き嫌いが分かれるんですが……」

 

 と、前置きするのが常だった。

 そして実際、好き嫌いが分かれる作品ばかりだった。

 さらに私は、そんな作品群がたまらなく好きだった。

 

 その訃報に触れた時、まずよぎった感情を、まだ自分自身うまく名付けられずにいる。一番ふさわしいのは感情とは少し違う「喪失」という言葉で、それ以上でも以下でもなかった。感情ではなく現象という方が近い。喪失。だけどどう考えても、その言葉が一番あの時自分の内に湧いたものに近い気がしている。何かがぽっかりと、その人物以上の大きさを持った何かがぽっかりと、世界から消えてしまった。「私の」世界から消えてしまった。

 

 哀しさも驚きも、まったくなかったわけではない。けれどそれらは喪失のあとに遅れてやってきてなんとなく内心を撫でて去っていった添え物的な感情で、どちらかといえば喪失のすぐ後にやってきたのは落胆だった……と思う。

 落胆。

 残念。

 あーあ、という気持ち。

 あーあ、そうか、もういないのか。

 現象ではなく感情としては、おそらくそれが一番早くに訪れたものだった。

 

 なにせこうして書きながら、私はまだその喪失が自分にとって、自分のこれまでにとって、自分のこれからにとって、どういう意味を持つのかはかりかねているし、その喪失をふとした折に思い出す度に、その時々によって違う感情を取り出して、どれもこの現象には合わないと放り出すのを繰り返しているような体たらくなので、長々だらだらと書き出しを始めてからなお、まだ、自分がこの文章をどこへ持って行きたいのかすらわかりかねている。何かを先延ばしにするようにだらだらと、この文章を書き続けている。

 

 とにかく、もういない。もう永遠にこの先、いない。この先の世界において、その人は消えてしまった。

 じゃあこれまでの私の人生にその人がいたかと言われれば、それも大きく頷くことはできないわけで。

 だって私はその人に会ったこともないし、話したこともない。私が、一方的に、相手を知っていて、相手の書いたものを貪るように読んだり崇拝したり畏れたり、そういうことをしていただけで、その一方的な認知の先に相手が生きているかいないかとかそういったことはあんまり関係がなかったし、時折ウェブ上に投げた感想が一読された形跡がわりにその手で拡散されたりした折に、少しだけ自分と相手の世界が交わったような気がして嬉しくなったりするだけのそれだけの、本当にそれだけの関係だった。

 しかし、もういない。

 いなくなってしまった。

 決定的に、この点において、それまでとそれより後は違う。違う世界になってしまった。

 私の認知は(そして永遠に変わりようのなくなってしまった向こう側からの認知も)これまでもこれからも変わりはないはずなのに確実に違う世界だ。

 その違いに、落胆してしまったのはなぜなのか。

 

 おそらく、いつかはあの人に会えるつもりでいたのだろう。

 

 その著作や言葉に触れるたびに、それらこそが自分の目指す先を照らしている灯台のように思えてならなかったし、まさしく五里霧中の(始まりからずっと晴れることのない五里霧中の)この途上において、その灯台を目指すことしかしてこなかった。それ以外に自分の進む先や原動力といったものが見いだせなかった。あそこを目指せばどうにかなる("どうにかなる"というのがどういう状態なのかすら私にはまだわかっていない)はずだという一心で私は書いたり書かなかったりをし続けていた。いまもそうだ。

 

 目指し続けさえすれば、目指すことをやめなければ、いつかそこにたどり着いて、それがいつになるのかわからなくても、いつかはそこにいる人と話せると思っていた。そう思わずには進めなかった。

 

 しかしもう話せない。

 「いつか」はおよそ多くの「いつか」がそうであるようにやっぱり訪れることはなかった。そういう落胆だったのだ。半ば予想していたのに、それが現実になってしまったという落胆。

 あの灯台にたどり着いて、あの灯台の光の中で、あの人と話すことはできなかったのだ、という手遅れへの落胆。

 

 にもかかわらず、いまなお、灯台の灯はともっている。信じられないことに。

 この世界から、その灯をともした人間が消えてしまっているにもかかわらず、灯台だけは依然としてそこにそびえ、変わらず灯はともっている。ただ灯台守だけがそこにいない。

 

 私は、その灯台の灯を、そこから見える景色を求めて進んでいた。し、今も、辛うじて、進んで、いる。辛うじて。息も絶え絶えに(私はもう半年もまともな小説を書いていない)

 相変わらずそこにたどり着くことが目標であり目的であることは変わりない。けれど、私は同時にそこで、灯台守に、山小屋の主に、会えることを期待していた。その期待だけが宙ぶらりんになっている。

 

 恐ろしくなるほど煌々たる灯をどうやってともしてくれたのか、どのようにして静かで孤独で気が狂いそうなほど果てしのない海を夜通し見つめていられたのか、そして何より、あなた自身はどのような灯台を目指してこの灯へ至ったのか。

 そう言ったことをおそらく聞きたかった。話したかった。

 

 それが叶う可能性はおそらく本当に本当にわずかなものだった。私は半ば以上、この航海がいずれかの港――しかし目指していた場所ではない――にたどり着いて終わるであろうことを確信しているし、その終点は大多数の第三者が思っている通りのほとんど確実で中途半端な失敗としてになるだろうということもわかっている。

 それでも、そのどれでもない終点、目に見えないほど遠くの延長線上にわずかな可能性はあった。私がその灯台にたどり着く可能性。灯台守はそこにいて、こちらを知らぬままに相変わらず煌々たる灯を守っている。私はそこを尋ねていき挨拶をする。

 

 そんな未来が、わずかながらにあったものが閉ざされてしまった。

 

 灯台守の不在。

 

 私がいつか、いつか、存在するのかわからない未来としてのいつか、そこにたどり着けたとしても、そこにはもう彼はいない。

 

 私は彼が残した火を見つめるのだろうが、そもそもそれが彼の灯したものかどうかももうわからない。誰かが火を焚べなおしたのかもしれないし、誰かが新しく建てたよく似た灯台かもしれない。

 

 しかしそこを目指すことはやめられない。

 やめられないのだ。

 孤独で果てしない航海の先に、私は無人灯台を目指すことになってしまったのだ。

 

 灯台守の死を聞いてから時間が経って(この文章は何日、何ヶ月にもわたって書き消し継ぎ足されているとてもとても長い時間軸で綴られている混乱の足跡なので)この事実にうっすらとした絶望を実感しながら、しかし私はここへ来てまた新たな意味を旅に見出してもいる。

 

 私の航海は本当に一人だけのものになった。

 これは私が灯台守に会いに行くための航海ではなくなった。

 私は彼の灯を目指しはするが、その原動力はもう私の中にしかない。

 私を引き寄せる引力はない。

 

 依然として五里霧中の、依然として果てしない、依然として失敗が約束されている航海はさらに孤独になった。

 

 私は、私の力だけで、あの灯を目指さなければいけない。

 

 あの灯を目指さなければいけない。